前置き
東日本大震災で犠牲になられたすべての方々にご冥福をお祈りします。
被害を受け、今も心に傷を負われている方に、13年を経てもなお、私はなんと声をかければ良いのか分からずにいます。
このブログは収益化を行っておりますが、この記事に関しては、多くの人が悲しみの渦中に居る中で、収益化を行わない判断を致しました。
自動配信の広告は削除し、記事中に挿入する広告も削除させていただきました。
しかし、一部ではありますが、外してしまうと本記事以外で生じる収益が減少することが予想される広告が存在します。
故に、完全に広告を削除することは不可能という結論に至りました。
身勝手な判断で申し訳無いですが、ご容赦ください。
また、今回取材した福島県双葉町に対して何らかの形で貢献できないかと探っている最中でございます。
内容が決定次第、お伝え致します。しばしお待ち下さい。
2023年12月31日 「uwemaの日記」管理人
双葉町、そして福島第一原子力発電所
書類上の人口と実際の人口
人口5千人と書きましたが、これはあくまで書類上、つまり住民票を双葉に置いている人々の数であって、実態は大きくかけ離れています。
実際のところ、100人程度しか人が住んでいません。
こうなったのにはもちろん理由があります。
恩恵と被害
東日本大震災によって、この町は実に10年近くもの間、一般人が立ち入ることが許されなかった地域でもあるのです。
1973年、この町の発電所が稼働します。
皆さんご存知の福島第一原子力発電所です。
徐々に規模を広げ、1~6号機が運用についていました。
原子力発電所(以下原発)は、地域に莫大な雇用と金をもたらします。
ところで、原発は市町村と市町村の境界線上に建設されることがほとんどです。
原発が位置する自治体には国からお金がおりてきますから、その恩恵を複数の自治体で享受しようとした結果なのです。
この福島第一原発も、双葉町とその隣の大熊町の境界線に位置しています。
2011年3月11日、東日本大震災の発端となる東北地方太平洋沖地震が発生します。
津波の襲来を受け、原子炉はすべて緊急停止します。
原発のよく言われるたとえの一つに、車の例えがあります。
原発は、ブレーキを踏まなければ加速し続ける車です。
つまり、ブレーキを適宜かけなかればなりません。このブレーキが、「冷却」ということになります。
原子炉が緊急停止しても、冷却は絶えず行う必要があります。
冷却を行わないと、水素が発生し、原子炉内の圧力が上昇してしまい、最終的には爆発してしまいます。
しかしながら、非常用電源を津波によって喪失し、冷却が非常に難しくなります。
様々な知恵を出し合い、なんとか原子炉の暴走を食い止めようとしましたが、1・3号機が水素爆発という結果になりました。
この結果をどう捉えるかは人それぞれですが、私個人の意見としては、チョルノビーリ原発の事例を考えると、むしろここまで抑え込めたのは素晴らしいと思いますし、もちろん防ぎようのあったことは否めませんが、あのような状況で的確な判断を下せた原発の関係者の方々には頭が下がります。
現在の福島第一原発の状況は以下のサイトからご確認ください。
全町避難
さて、福島第一原発が事故を起こし、近隣の市町村には避難という現実が突きつけられます。
特に、双葉町は全町避難といって、町内全体が避難の対象となり、再びゲートが開くまでに要した時間は実に9年。
しかし、町内すべての地域が立ち入れる様になったかといえばそんなことは全く無く、令和2年に双葉駅の周辺の避難地域が指定解除、そして令和4年に沿岸部の一部地域が指定解除となりました。
いまだ復興の途上にある双葉町ですが、冒頭に書いた通り、書類上の人口と実際の人口に大きな隔たりが残っており、避難した双葉町民の方々も、避難先の場所で既に生活基盤が定着した方も多く、10年近くを経て、今双葉に戻ろうという方も少ないそうです。
9年、あるいは11年という時間は、あまりにも失うものが大きすぎたのだと思います。
今回は、2023年10月に双葉町を訪問、取材した際の写真を中心に、多少の解説を交えながら双葉町の現状を紹介していきます。
双葉駅
双葉町訪問は鉄道です。
仙台駅から普通列車を乗り継ぎ、朝方に双葉駅に到着しました。
双葉駅は1面1線のいわゆる傍線駅ですが、ふと辺りを見渡すと、対岸にもホームがあることがわかります。震災以前はもう一本線路がありました。
跨線橋があり、跨線橋の中央に改札が設置されています。橋上駅舎というやつです。
改札には線量計が設置されていました。
外に出てみると、洒落たデザインの現代的な駅舎でした。この駅舎は、震災後の常磐線復旧時に整備されたものです。
では、旧駅舎はどこにいったのでしょうか。
実はすぐ隣に残っています。
旧駅舎の方は、休憩所的なものとして利用されています。
旧駅舎の時計は午後2時46分、震災発生時刻を指しています。
駅前には広場が整備されています。
東京五輪(2回め)の聖火リレーの経由地となった双葉ですが、広場の中央にはその記念碑が建立されています。
バス停からは、後で紹介する原子力災害伝承館に向けてバスが発着しています。
現状、双葉町のエリアは大きく2つに分けられます。
1つ目のエリアは双葉駅を周辺としたエリア。そして2つ目のエリアは沿岸部の資料館や工場などが位置するエリアです。沿岸部のエリアには記念公園などが整備される予定です。
駅周辺のエリアと沿岸エリアは結構離れており、徒歩では少し鬱陶しく感じてしまう距離です。
しかし、駅前にシェアサイクル(100円返却型)が整備されているので、これを利用して双葉町を走ってみましょう。
沿岸に向かう
駅前の道路を走ってみます。
家屋も多く、けっこうな住人もいらっしゃるのではないかと疑ってしまいますが、実際にはこの殆どが人が住んでいない家屋です。
では、沿岸エリアまでを結ぶ道を走ってみます。
国道6号との交差点を過ぎ、辺りには数棟の建物が見えますが、ほとんどが廃墟です。
また、おそらく地震によってズレたであろう蔵がそのままです。
(プライバシーの都合上写真は掲載しません)
暫く進むと、岐阜県の撚糸メーカーである浅野撚糸の工場が見えます。
復興の一環として双葉町に工場を建設したそうです。
この工場で生産される布地を用いた製品は各所で販売され、売り上げの一部が復興に用いられています。
原子力災害伝承館を訪問
辺り一面に広がる土地に、緑は少なく、遠くに見えていた建物があっという間に近づいてきます。
沿岸エリアの中枢となる原子力災害伝承館と双葉町産業交流センターです。
自転車を停め、入館します。
原子力災害に特化した博物館なだけあって、原子力事故の恐ろしさと、いかに原子力が日本の成長を支えてきたかがわかる内容となっています。
写真の商用利用禁止とのことで、僅かながら広告を挟んでいますので、写真は掲載しないことにします。
本来1時間程度で見学を終える予定でしたが、語り部さんのお話も聞かせていただくことが出来ました。
発生から10年以上経ったとはいえ、未だに記憶が薄れないうちにこうして被災者の生の声を聴かせていただくことが出来て、日常のありがたみを感じることが出来ました。
見学を終えて、隣の産業交流センターで友人へのお土産を購入します。
先程紹介した撚糸メーカーのハンカチです。
写真ギャラリー
産業交流センターの最上階にはデッキがあり、双葉町を一望できます。
さて、辺りを見渡してみましょう。
除染を終えて、少しずつ復興が始まっていますが、未だに立ち入ることの出来ない区域が多く残されています。
福島第一原子力発電所は、肉眼で捉えることは出来ませんでした。
デッキから降りて、しばらく自転車で辺りを見渡しましょう。
写真は掲載していませんが、1階部分が削り取られたままの住居や、地震の被害を受けてそのままの状態の家屋も点在しています。
電車の時間が迫っていますので、そろそろ引き返しましょう。
行きに使った道は実は最短経路ではなかったようで、帰りは最短経路を利用することにしました。
軽快に自転車は走ってくれます。
元々畑が会ったのであろう場所の中には、耕作放棄されている場所もあるそうです。
津波により上手く作物が育たなくなったのでしょうか。
現在、住宅は駅の山寄りにあり、集合住宅のようなものが何棟か建設されています。
双葉町に移住してセカンドライフを過ごされる方もそれなりにいらっしゃるそうですが、若い人たちはなかなか居ないようです。
予定より2本ほど電車を見送り、いわき方面に向かう列車に乗車します。
本来は夜ノ森駅にも立ち寄る予定でしたが、夜ノ森駅は再度訪れることにして、富岡駅に向かうことにします。
富岡の町は、また別の記事にしようと思います。
最後に
今回は、福島第一原発の事故によって、10年近く立ち入ることが許されなかった双葉町を紹介しました。
取材に当たって、突然声をかけてもにこやかに応対してくださった双葉町職員の方、質問にも丁寧に答えてくださった語り部の方に、改めてお礼申し上げます。
今後復興が進むであろう双葉町をこれからも見つめていきたいと心に刻み、防災に対する意識も高めることが出来ました。
この記事を読んでくださった皆さまが、何気ない日常の素晴らしさに気付いてくだされば幸いです。